徳川時代に道幅4~5メートルの西国街道であった一本の道は、開港で大変身を遂げる。
当初予定から5年間も延期された兵庫の開港地が神戸村に決まり、元は、原ッパであった地に外国人居留地が誕生することとなった。
それを聞いた村人たちは口々に「ええじゃないか」と喜び、当時の外国人の記録では、その狂喜乱舞のお祭り騒ぎは10日間にも及んだとある。
神戸、二ツ茶屋、走人(はしうど)の3村は人口が急増し、一気に10町に生まれ変わる。
時は流れ、神戸と大阪の街をつなぐ鉄道が開通した明治7年(1874)、元々は町屋建築(街道筋に面し間口が狭く奥行の長い店舗兼住居)が並んでいた東西1.2キロメートルの道筋は「元町通」と名付けられた。
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大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発。
この戦争は日本に未曾有の好景気をもたらし、神戸に船成金などの成金が続出する。
人々はモダンな店舗が並ぶこのまちに足繁く訪れ、商店で働く人々とともに活気ある会話を楽しんだ。
そんな大正の時代を元町で過ごした人物に「君の名は」の原作で大ブームを作った菊田一夫がいる。
当時、このまちで丁稚奉公し、その後東京へと旅立った。
少年の淀川長治も、最新のアメリカの映画雑誌を買い求めて元町の書店に通い、ミヤコ蝶々も少女時代、元町の家具店に親子で住み込んでいる。大正の元町には、そんな彼らの思い出が染み込んでいる。
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昭和3年(1928)の5丁目浜側、西国お遍路さんが思わず足を止めた真夏の元町通。

昭和5年(1930)頃の2丁目を西から東を望む。

昭和9年(1934)頃の1丁目を東から西を望む。

昭和11年(1936)の1丁目入口から西を望む。
大正15年(1926)に東京日本橋の「三越」が「元町デパート」(大正14年開業)を買収して元町通の西端に進出、さらに4丁目の「大丸」が旧居留地の西北端の現在地への移転話が持ちあがると、東西をデパートメントストアに挟まれて危機感を抱いた元町商人は各丁が互いに手をつないで連携を図る。
「横のデパート(商店街)」として1丁目から6丁目がひとつにまとまり、そのために並び立てたのが「すずらん灯」だった。
昭和6年(1931)に国有鉄道が高架となり、元町にあった「三宮停車場」が「三ノ宮駅」として加納町へ移転、それに困惑した元町商人は互いに資金を出し合って、昭和9年(1934)に「元町駅」を完成させる。
その後昭和11年(1936)には阪神電車が地下から元町に乗り入れ、阪急電車も加納町に「三宮駅」を開設している。
昭和恐慌、戦争の足音、阪神大水害・・・そうした波乱に満ちた時代でも元町通が一番輝いていた時代は、と言えば「すずらん灯」があったあの時代であろう。
大丸デパート神戸店では神戸生まれの今竹七郎(日本のモダンデザインの父)が意匠部で活躍を始め、また、欧米帰りの写真家の中山岩太(日本の新興写真運動の旗手)も東京になじめずに芦屋に移り、元町通でシャッターを押した。
元町駅の南の鯉川筋の「神戸画廊」には、東京美術学校を出たばかりの小磯良平、異人館の画家の小松益喜、無名時代の東山魁夷、版画家の川西英らも、今竹や中山と共に集まってきた。
花隈に移り住んだ村上華岳、駆け出し時代の淀川長治、少女時代の辻久子らも時代の最先端を行くアール・デコ様式の「すずらん灯」に吸い寄せられるかのようにやって来た。
そして昭和14年(1939)、神戸の人口は100万人を突破する。
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昭和13年(1938)、神戸を襲った阪神大水害。
6月6日から29日間、太陽を見た5日間を除き、連日雨が降り続き、直前の3日間では神戸の年間総雨量の3分の1の集中豪雨となり、未曾有の大水害をもたらした。
7月5日の午前11時頃、暗渠工事がされていた宇治川をはじめ、新生田川、住吉川さらに芦屋川、武庫川、淀川に至るまで川という川が全て氾濫を起こし、死者616人、負傷者1011人、5964戸の家屋が全壊流出、神戸市民の4分の3にあたる人々が被災した。元町通でも完全復旧にはひと月半を要した。
昭和12年(1937)に日中の全面戦争が勃発する。
昭和13年(1938)には国家総動員法が公布され、戦時体制に入る。
翌年にはその国家総動員法をもとに「価格等統制令」(9・18ストップ令)が公布施行され、商品価格が凍結、公定価格が出現し、市場価格が混乱を起こす。
メーカーの売りおしみで物不足が広まり、南京町などに闇市が出現している。
そんな時代の中、日増しに高まる大戦の足音・・・
シンボルとなったすずらん灯とともに昭和の神戸に華やかな光を放ち、人々を魅了し続けた元町通は急速にその輝きを失っていく。
開戦当初の破竹の勢いも、ミッドウェー海戦で大敗して以来、戦況は悪化の一途をたどる。
全国に護国神社を創建しての「神頼み」を願う国民の気持ちとはうらはらに、北方のアッツ島の玉砕、サイパン陥落などで、本土空襲が時間の問題となり日本は絶望の淵へと追い込まれる。
そして戦争は最終局面を迎え、神戸はその矢面に立たされる。昭和20年(1945)3月、神戸市の西部が大規模な米軍の爆撃機B29の空襲に遭い、元町通の東半分が壊滅的状況となる。
さらに追い討ちをかけるように、6月には再びの大規模な空襲にさらされ、残っていた西半分もまさしく壊滅的な被害を受けた。

昭和23年(1948)の3丁目のジュラ街(ジュラルミン街の略称)を視察される三笠宮崇仁殿下(大正天皇の第四皇子)の御一行と小寺謙吉市長(向かって右、相楽園の寄贈者、三田学園の創立者)。

昭和27年(1952)の5丁目。
8月15日に戦争が終わり、9月には連合国の占領軍(進駐軍)が続々と上陸し、神戸港の港湾施設、居留地内の主要施設は接収された。
元町駅などの高架下に闇市が生まれる中、かろうじて焼け残っていた元町通でも復興に動き出す。
焼け残った高架下の店に各丁の役員が集まり、復興策を論じあった。





























