昭和にはいって元町が忘れることができないにがい思い出に、昭和13年7月5日の阪神大水害があります。
前の夜から強風をともなって降り続いた雨は宇治川を氾濫させました。
元町6丁目から遠く大丸前まで、ちょうど溝のようになった商店街全域を泥海と化したのです。やがて大東亜戦争が激烈となり、元町名物「鈴蘭灯」も全て提供しました。
昭和20年3月17日、6月5日の二日にわけて、神戸市内を見舞った大空襲によって、元町商店街は全滅しました。
戦後、元町商店街でも各商店会を再結成して、復興作業に着手しました。
店舗はジュラルミン製となり、後にアーケードを新設しまし、明るく買いよい老舗の商店街[元町]を育てるいしずえとなりました。

- 11年
- 阪神電鉄“元町駅”新設
- 13年
- 阪神大水害
- 17年
- 大東亜戦争が激烈となり、商店街行政も不能に陥り、各町の商店会はいずれも解散
- 19年
- 親しまれた、元町名物『鈴蘭照明灯』が戦力増強の為、供出される
- 20年
- 神戸大空襲により、元町商店街全滅
- 21年
- 元町にジュラルミン街完成
- 24年
- 6丁目に『阪神相互銀行』がオープン
明治38年から大阪出入橋~三宮間を走っていた阪神電車が、元町まで延長され『元町駅』が誕生しました。
元町の繁栄を願っていた市民はとても喜び、【鈴蘭灯】がともった元町通りは、益益賑わいました。
明治時代に始まった【誓文払い】は昭和に入っても毎年11月に行われていました。
昭和13年7月5日、神戸市全域は【阪神大水害】に見舞われました。
前夜から降り続いた雨は風を伴い、『元町』でも、西入口北側の『宇治川』が氾濫し、大丸前まで『元町』全体が泥海と化しました。
阪神電車も1ヶ月以上も不通状態。
神戸市下における被害・・死者616人、負傷者1,011人、家屋全壊流失5,961戸、被害総額1億4,399万円元どおりになるまで約一ヶ月半も要しました。
昭和16年に勃発した【大東亜戦争】が激烈となり、商店街行政も不能に陥り、各町の商店会はいずれも解散しました。
19年には、親しまれた元町名物【鈴蘭灯】が戦力増強の為、供出されました。
(この頃、武器の原料となる銅や鉄など“金ヘン”のものは国に提供しなければならなかったのです。)

-
昭和20年3月17日、6月5日の二日にわけて、神戸市内を見舞った大空襲によって、元町商店街は全滅しました。
戦後、神戸市民の力強い立ち直りで、まったくの焼け野原から復興作業がなされ、元町商店街でも各商店会を再結成して、復興に力を注ぎました。

-
神戸市の行政指導もあって、店舗はジュラルミン製になり、後にアーチやアーケードを新設しました。
これらが、今の明るくショッピングしやすい老舗の商店街『元町』を育てる礎(いしずえ)となりました。
※ジュラルミン・・・アルミニウムに銅・マグネシウム・マンガンなどを加えた白色の軽合金。軽量で加工しやすく、耐久性に富んでいる。
当時の社名は『七福相互無尽株式会社』で、昭和26年10月に相互銀行に転じる。
(ちょっとした雑学)
全国的に経済状態は不況でしたが、そんな不安な気分を払拭しようと、昭和8年(11月7日8日)第1回「みなとの祭」を開
催したそうです。
この祭りは、アメリカ・ポートアイランドのローズフェスティバルを参考にした、祭りとは異なる新しいタイプの「市民祭」として企画されたそうです。
第1日は神事祭典、祭りの女王戴冠式、国際大行進、そして、花火大会に海上提灯行列が夜遅くまで続けられ、第2日は第一神港商業学校~大開通り~元町通りと、トア・ロード~大倉山のコースで懐古行列で幕を開き、山も街も電飾し人気の花電車・花バスも作られ市民は踊り明かしました。
後に1967年(昭和42年)の神戸開港100年祭のときに開催された神戸カーニバルが現在の神戸まつりのルーツとなっているそうです。
- いかなごの佃煮
- 垂水区が発祥といわれているいかなごの佃煮ですが、ほとんどは釜揚げやちりめんとして食べられていました。
1960年代頃になって、「くぎ煮」(出来上がりが「さびた古釘」のよう)と名付けられたそうです。
- ロープウェー
- 昭和6年、阪急電鉄の六甲登山架空索道会社(六甲ロープウェー)といわれています。
山麓の土橋から山頂の前が辻までの1.6キロを7分で結びました。
- 参考文献 こうべ元町100年 元町懐古写真集「道」







